未曾有の巨大地震と大津波に見舞われた3.11。自然の脅威になす術もなく、途方にくれる人が多かっただろう。現地に行く事がいいのか、寄付をする事がいいのか、私たち個人で一体何が出来るのか、国内だけでなく世界中の人々が思いめぐらせ立ち止まった時間があったのではないか。
そんな中、ART-AID 実行委員会:Basel Project for Japan は、テンプル大学講師を務めるインディペンデントキュレーター渡辺真也の声がけから、「アートで出来る事はなんだろう?何かあるはず」そういう思いを共有する人々が集まり、結成された。そして、私自身もメンバーとして加わった。
そもそも、アートは今という世の中を反映し、そして、そこから新しい思想や哲学提言し、あるいは、問題提議していく役割を担っている。それでは、今日本が直面しているこの未曾有の惨劇を反映させ、そして、そこから新たな道しるべを模索する行為こそ、アートが出来ることなのではないだろうか。そして、人々の関心が弱まっていくなか世界へ発信することの必要性に重点を置き、本展覧会「来るべき未来への追憶」のバーゼル開催が決定した。
「忘れないで欲しい」 − それが被災地の多くの人の思いだろう。現在を受け止め、もう一度、記憶を呼び起こす。そして未来の視点から現在を追憶し、又未来へ繋げる。その展覧会主旨に賛同してくれる人々から実行資金を募り、会場で集めた寄付金を震災孤児への支援に当てるということ、それがこの展覧会の役割である。
あれから、3ヶ月の時を経た6月11日、バーゼル市内の旧Plug In で、ART-AID実行委員会: Basel Project for Japan(来るべき未来への追憶)展覧会のオープニングを迎えた。展覧会はヨーゼフ・ボイス、インゴ・ギュンター、畠山直哉、大巻伸嗣、オノ・ヨーコ5名の作家で構成される。壁、床、全て真っ白に塗り直されたスペースに、赤い作品やウォールテキストなど、偶然にも赤を使用した作品が多く、赤と白が目にまぶしい。
大巻の新作「Echo – Eclipse of Life」。赤い花柄のイメージがフロアーに描かれる。太陽光へと重ね合わせ、窓から差し込みフロアーを照らした自然光の瞬間を形取ることで、大巻はその瞬間を、あたかも日食の様に結晶化させようと試みる。それは災害の記憶のみならず、生と死というサイクルさえも隠喩している。人の中に残る記憶というのは、流れる映像というよりも、一コマの絵として残る。311の記憶、すなわちあの大津波が全てをなぎ倒す映像が、一コマ一コマ、スライド写真のように記憶されているのではないだろうか?ある意味、あの瞬間に花を供えているかのようにも見える。それでも時は無常にも流れて行く事を光の中で大巻は、表現する。
赤い花の端隣に、畠山直哉のドイツの炭坑が爆破される瞬間を捉えた写真シリーズ「Zeche Westfalen I/II Ahlen」(ヴェストファーレン炭鉱I、II、アーレン)が飾られる。畠山は、故人を懐かしむためにその人の肖像が必要なように、消えてしまった建築を懐かしむために建築写真が必要とされ、故に、「記録」は常に未来からの視線を前提としていると考える。破壊的な一瞬一瞬を写真に収めることで、まさに人の記憶のあり方を体言化させている。畠山は被災地域である岩手県陸前高田市の出身、そして、今回の震災で母親を失っている。作家自身の経験から、写真の定義、「記憶への奉仕」を再度取り戻すこととなる。
インゴ・ギュンターは3月11日、東京で震災を経験し、津波の壊滅的被害を受けた東北の海岸線に松林を再生させるプロジェクト、「Thanks a Million」を提案。100万の松の木の種を提供し、そこから生まれた松の木を植えることにより、東北の美しい海岸線を取り戻すとともに被災地と世界中の人々との永続的な関係性の構築を目指す。元小学館編集長の手書き文字、「白砂青松」と書かれた名刺サイズのカードが日本地図を描く。東北で津波被害を受けた場所には、赤い封筒が敷かれてある。その封筒の中には、今回の松林再生のメッセージと数粒の松の種が入っている。封筒のセットは来場者に持ち帰ってもらい、それぞれに松の木を育ててもらう。その松の木を育てる行為により、毎日、被災地の事を思い出すことになる。そのことで、まず精神的なつながりを世界中に植え付ける、それがこのプロジェクトの初めの一歩になる。
ギュンターの日本地図の先には、オノ・ヨーコの「Wish Tree」が静かに佇む。種から木へ、夢をつなげる。人々が自らの希望や平和への願いを書いた短冊を1本の木に吊るすという、参加型作品。オノが90年代から世界各地で展示している作品である。「ひとりで見る夢はただの夢。みんなで見る夢は現実になる」と語るオノの本作品はバーゼルの地における内省の場となり、参加者の深い共感と願いは、地球の裏側にある被災地へと運ばれる。
地下スペースでは、ヨーゼフ・ボイス「1984年6月2日 東京芸術大学での対話集会」の記録映像を上映。ボイスはこの年、自身のプロジェクト「7000本の樫の木」への資金集めを目的に来日し、結果的に日本はこのプロジェクトの最大のスポンサー国の一つとなった。ボイスは、西武グループによるスポンサーシップの交換条件として、日本での個展を受け入れ、さらに公開対話集会の開催を提案した。この対話集会では、自身の美術活動の資金作り目的で来日したことを日本の美大生たちに激しく批判されながらも、それは美術活動に関する古典的な問いである、と学生たちに語りかけ、自身の「社会彫刻」についての信念を語る。ギュンターはボイスの生徒の一人でもあり、樫の木から松の木へと、その「社会彫刻」の信念を受け継ぐ事になる。
また今回、実行委員会メンバーであり、テンプル大学を卒業したばかりの佐藤晃のビデオも発表している。佐藤の両親は、陸前高田市に住んでおり、津波で母親が亡くなり、父親も生死の境目を経験した。ビデオでは、高田松原を散歩する両親の写真、そして、父親が勤めていた病院に津波が襲ってくる映像や、その後、陸前高田市に戻り、インゴ・ギュンターのプロジェクトの一部として、松の苗を植える様子が佐藤のナレーションと共に淡々と流れる。
ボイスは当時、新しいアーティストの立場、アーティストとしての社会との関わり方を強固にした。その土台があるからこそ、今のアートのあり方がある。その土台の上に、佐藤晃が経験した被災の現実、そこが種となり、4名の作家が、花を咲かしているような全容 – 畠山の写真作品が写真の定義を再来させ、大巻の赤い花が、記憶のあり方を、そして、時が刻む有り様を、ギュンターの松の木の種が日本と世界との関係性を育て、オノが人々の願いを届ける。
アートバーゼル会期中は、夜の10時まで、開催。スイス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、アメリカ、中国や、現地に住む日本人らなど、来場者の数は絶え間なく、それぞれの願いを木に灯し、ギュンターの種を持ち帰って行く。佐藤のビデオに涙する者もいた。
私は、今回、インゴギュンターの松の木プロジェクトを主に担当した。長年の友人でもある彼が、日本の海岸線を再生したいという思いを聞いたのは、かれこれ2年前である。それが、二人の知人である、島本修二氏、元小学館編集長から、白砂青松が日本の海岸線の原風景である事を知らされた。それが、今回のような形でプロジェクトの発表となるとは夢にも想像していなかった。ある意味、運命的な流れを感じずにはいられない。
又、私は3.11の前日にNY入りをしていた。そして、テレビの画面から、あの大津波を見ていた。何も手に付かず、ただテレビ画面に釘付けとなった。自分が24時間前にいた国とは全く違う国に見えた。果てしなく遠い場所に自分がいる気がした。世界中にいる友人から、メールで”大丈夫か?”とメッセージが届き、事の重大さを身にしみて感じ、NYにいる事に罪悪感を感じた。何をしたらいいのか分からず、帰国しても自分に出来ることなど、何もないように思い、ただただ途方にくれた一人であった。日本へ帰国した次の日、友人でもある渡辺真也に 麻布十番駅で偶然会い、ART-AIDの話を聞き、実行委員会に参加する経緯となった。偶然ではない必然、それを運命と呼ぶのであれば、これは、運命の導きだったと言える。
震災を経験していない私でさえ、今回の事は、大きな傷、トラウマとなっている。本当に、日本に未来は、希望はあるのかという不安も大きい。しかし、今回、この実行委員会に関わる事で、小さくても、少しでも、震災支援に繋がる事が、心の救いとなった。一人では出来ないことでも、多くの人が思いを一つにすることで、何かが成せるという事実、そして、人との繋がりの大切さを改めて学んだ。
バーゼルに滞在し、展覧会準備、オープニング、アーティストトークを経て、多くの人々の協力を得て、何とか、ここまでたどり着けた。なかなか希望の見えない国、日本から、バーゼル入りし、この展覧会の準備に携わり、アーティストの声を聞く事、関わる人々の思いを共有することで、ほんの少し、光が見えたような、そんな思いである。そう思えるからこそ、きっとそれが被災地にとっても希望となると信じている。ギュンターの種を手渡し、説明すると、来場者は、感動し、深い理解を示してくれた。もちろん、寄付を集める事が重要な目的であるが、オノが語るように「ひとりで見る夢はただの夢。みんなで見る夢は現実になる」それが、世界へ発信され、人々の心にその種を植える事が、今回、初めの一歩である。
ここからが始まりである。震災支援は、長期的に必要なもの。記憶は薄れて行くのが人の性である。だからこそ、ここを土台にして、これからも、発信し続ける事の必要性を感じる。政治家や官僚ではなく、アーティストだから出来ること、それは明確である。そして、発信し続けること、それが必ず大きな力となるはずである。
(武田菜種)